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機関誌「エフ」

Fプロジェクト 第7回  飛島建設 篇

壮大な地球規模のミッションに
現場監督の経験と能力を活かせ!

「南極地域観測隊設営技術者派遣プロジェクト」


南極・東オングル島の昭和基地主要部。
写真=第52次南極地域観測隊 山中義憲隊員撮影

 どこまでも続く雪と氷の世界、まばゆい光で空を彩るオーロラ、愛らしいペンギンの群れ…南極。
 世界各地を人々が頻繁に往来する現代においても、人類の活動がほとんど行われていない南極は、地球環境を正確にモニターできる稀有な大陸だ。日本の南極地域観測隊(以下、南極観測隊)は、かの地で65年余り地球環境の観測を続けている。飛島建設は、この南極観測隊の建物や施設の設営を担う技術者を四半世紀余りに亘って派遣し、現地での活動を支えている。その取り組みにフォーカスした。

突然のミッション南極地域への技術者派遣

 1956年に国際協力事業の一環として日本の第1次南極観測隊の派遣が決定、翌年には南極観測隊の拠点となっている昭和基地が誕生した。以来、南極観測船の引退に伴う中断をはさみながらも、南極観測隊派遣の歴史は積み重ねられている。南極の巨大な氷床には過去の気候変動、その下の岩盤には地球の歴史が残されている。南極でのさまざまな観測をもとに、地球の過去を知り未来を予測する研究が続いているのだ。
 飛島建設がこの壮大なプロジェクトに関わるようになったのは1994年のことだった。南極観測事業実施の中核機関である国立極地研究所から、南極観測隊設営部門への技術者派遣を要請されたのだ。
「南極観測隊員が研究や寝起きするための施設を建設するのは隊員自身。研究者や医者、料理人といった人も設営に参加します。しかも気象条件の厳しい南極での作業は短い夏の期間に限られます。隊員が安心して生活できる建物を計画通りに建設するために、プロの現場監督の技量が必要とされたのでしょう」
 当時の状況を説明してくれたのは、飛島建設から初めて南極観測隊員として派遣された和泉澤統一さんだ。

  • 「しらせ」甲板から眺めるオーロラ。
    写真=第58次南極地域観測隊 後藤猛隊員撮影

  • 接岸中の「しらせ」の間近で歩くペンギンたち。
    写真=第60次南極地域観測隊 馬場潤隊員撮影

  • 南極の氷の海原を進む砕氷船「しらせ」。
    写真=第59次南極地域観測隊 近藤一海隊員撮影

  • 初めて設営技術者を派遣した当時の昭和基地中心部。
    写真=第36次南極地域観測隊 和泉澤統一隊員撮影

設営技術者として初めて派遣された和泉澤統一さん(派遣当時)
写真=第36次南極地域観測隊 和泉澤統一隊員撮影

 和泉澤さんに建築部長から南極行きの話があったのは、1994年4月のこと。翌日までに引き受けるか否かの返答を求められた。突然の話に驚いたものの、帰宅する電車の中で「この電車に乗っている人のうち、南極に行ったことのある人は何人いるだろう。いないよなぁ、行ってみたいなぁ」と、返事は決まった。
 通常なら南極観測隊員の決定は2月までに、3月には顔合わせを兼ねた最初の訓練が行われる。しかし和泉澤さんの派遣が内定したのは5月。それから隊員になるための健康診断などがあり、6月の夏の訓練に「やっと間に合って参加できました」。観測隊員は南極でどんなことをするのかといった知識を得、消火器の扱い方や人工呼吸などの救命処置について学び、ほかの隊員とのコミュニケーションを図った。6月末の南極地域観測統合推進本部総会(当時文部省)により隊員決定。国家事業なので隊員たちの身分は「国家公務員」となるため、7月から飛島建設を休職して国立極地研究所の職員として文部技官となった。出発までの準備期間には、現地での設営に必要なものを買いそろえ、一度日本で仮組み立てを行ってそれを解体して梱包、船に積みこんだ。
 11月、船(初代「しらせ」)に乗船、出発。
 船内では、赤道祭や現地での作業をレクチャーするなどして過ごした。途中、オーストラリアのフリーマントルに寄港して食料品などを調達、氷の海を目指して出港すると、1週間ほど暴風雨に見舞われ、食事も困難なほど激しい揺れを経験した。やがて氷山が間近に迫って凍った海に突入すると、厚い氷と格闘しながら前進する日々が続いた。
 「ガリガリと砕氷しながら進むのですが、横を走っているペンギンに抜かれていくような遅々としたものでした」
 昭和基地は南極大陸から4kmほど離れた東オングル島にある。現地での作業時間を確保するため、ある程度近づいたところでヘリコプターに乗り換えた。基地に降り立つと、越冬隊員たちが迎えてくれた。
 「現地での滞在は60日間。正月やブリザードで作業できない日が7日ありました」
 到着してからの仕事は建物の建築だったが、道具立てや作業員は日本とは全く違う。
 「設営作業に従事する隊員のほとんどは建設のプロではない。そこのところで少し苦労しましたが、彼らは非常に能力が高く、いざ作業を始めると多能工的に対応できるので、思っていたより早く工程が進みました」
 南極滞在中、飛島建設は次年度以降も南極観測隊員として技術者を派遣することを決定した。「よし、バトンをつなごう!」。和泉澤さんは次に派遣される隊員に役立つ情報などを心に刻みつつ、南極を後にした。

越冬も経験、建築でも土木でも現場力を発揮

 和泉澤さんが参加したのは、1994〜1995年の第36次南極観測隊。その後、第45次を除いて、飛島建設は毎年技術者を派遣している。通常は短い夏季にミッションを終えて帰国するが、越冬経験者もいる。2004~2006年の第46次越冬隊員として参加した奥平毅さんだ。

 1年2ヵ月、足掛け3年を南極で過ごした奥平さんには、忘れがたい経験がある。ドームふじ基地でのミッションだ。2005年10月17日に昭和基地を出発し、何台もの荷橇を連ねた雪上車を1日20時間走らせるといった行程を経て、11月7日にドームふじ基地に到着した。そして夏でもマイナス35~40度の極寒の地で氷床の深層コア掘削に立ちあった。
 「3028mまで掘り進んだところで氷が融解してドリルの刃先がスタックしそうになりました。岩盤まであとわずか、というところでミッションは終了しましたが、私自身も体験掘削で3000m近く(約70~80万年前)の氷を掘削でき、格別の思いを抱きました」
 2006~2007年の第48次には2名派遣された。砕氷船「しらせ」が新しくなったことでコンテナ輸送が可能となり、昭和基地に道路を敷設するため、土木部門へも技術者派遣要請があったからだった。土木部門から派遣された技術者は橋本斉さん。
 「10トントラックを走らせることができる道路を計画してほしいということでした。日本でいろいろと準備していったものの、着いたら計画予定地の地盤が悪く道路が造れないことがわかり、1週間くらい悩みました」
 そんな予測外の状況にも柔軟に対応し、橋本さんは固い地盤を削って道路を完成させた。「南極観測隊に参加した土木屋として環境保全のために何かできないだろうか」と、空き瓶を砕いてコンクリートに混ぜ込むことでゴミの削減も試みた。橋本さんは翌々年の第50次隊にも参加し、土木技術者として南極に確かな足跡を残した。
 第48次隊のもう一人の技術者は建築の科部元浩さん。「機械の冬の間の格納庫となる長さ25mの倉庫を造りました。当時は昭和基地で一番大きな建物だったんですよ」。
 この頃から昭和基地の設営規模が大きくなったこともあり、第51次からは2年連続で同じ技術者が派遣されるようになった。後藤猛さんは第57次(2015~2016年)と第58次(2015~2016年)で派遣され、基本観測棟の建設工事などに携わった。
 「2年連続で行くことができたのは非常に有効でした、最初の年はコミュニケーションを図るまでに時間がかかりましたが、2年目はすでに顔見知りの隊員も多く、効率良く作業を進められました」。
 後藤さんはコロナ禍に見舞われた2020年、第62次隊にも参加した。出発までの2週間隔離され、通常より少数の人員で構成された南極観測隊は無補給で昭和基地に向かった。そして、基礎から手掛けた基本観測棟の完成した姿と対面を果たすことができた。

  • 冬季の風雪から機械を守るための大型格納庫建設工事。

  • 基礎工事から隊員たちが協力し合って作業を進めていく。
    写真=第48次南極地域観測隊 科部元浩隊員撮影

  • 第2車庫兼ヘリ格納庫スロープ工事。
    写真=第57次南極地域観測隊 後藤猛隊員撮影

  • サステナブルな風力発電装置(3号機)の建設工事。
    写真=第60次南極地域観測隊 馬場潤隊員撮影

  • 第57次から建設工事が始まり、第59次で完成した基本観測棟。
    写真=第59次南極地域観測隊 近藤一海隊員撮影

グローバルな貢献 社内風土への貢献

 「現場監督は多様な分野の職人やプロをまとめて工期に間に合わせるのが仕事。南極では建築や土木の専門知識に加えて、異業種の人とコミュニケーションを図り、安全を確保してオペレーションを遂行することが重要でした」。科部さんの言葉に集約されるように、設営部門で派遣される技術者の最大のミッションは、作業を円滑に進めるためのコミュニケーションの要となることだった。
 多くの困難にも遭遇したはずだが、南極を知る技術者たちは皆、楽しそうに現地での体験を語り、チャンスがあればまた訪れたいと笑顔を見せる。
 厳しい極地の環境の中で自らの役割を全うした彼らは、観測隊の活動を通じて地球規模のプロジェクトに貢献する一方で、多くのものを得てもいた。限られた資材や機械に工夫を凝らす生活で原点に立ち返れたという人、対応力が磨かれたという人、南極の過酷な自然にさらされて住環境の大切さを改めて実感したという人、手つかずの自然の中で過ごし音や匂いに対する感覚が研ぎすまされたという人、人間観察力が磨かれ肝が据わったという人。南極観測隊員として過ごした時間と経験は、それぞれの中で大きな財産となり、帰国後の仕事にも還元されているのだ。
 どんなにIT化が進んでも、人とのコミュニケーションが大切であることに変わりはない。自らの考えで判断し行動する能力、地球規模での環境や国際協力への視点など、南極で体感して獲得した多くの知見や感動は、きっと飛島建設の次世代を切りひらくパワーの源になっていくはずだ。飛島建設を支える柱のひとつとなっている南極への設営技術者派遣プロジェクトは持続され、これからも歴史と研鑽を重ねていくのだろう。

  • 今回お話をうかがった南極地域に派遣された設営技術者の方々。右から橋本さん、科部さん、和泉澤さん、奥平さん、後藤さん。現地で掲げていた初代看板とともに。

  • 右から南極での作業用ヘルメット(橋本さん提供)、南極大陸と東オングル島の地図(和泉澤さん提供)、厳しい環境下での作業を支えた腕時計(奥平さん、科部さん、後藤さん提供)。いずれも南極地域派遣の思い出が詰まっている。

  • 夏季の南極海域に望める沈まぬ太陽。現地でしか出会えない貴重な絶景だ。
    写真=第61次南極地域観測隊 壽松木一哉隊員撮影

COLUMN

太古からの地球の気候変動を解明する ドームふじ基地での氷床掘削

 1995年2月に氷床深層掘削の拠点として、昭和基地の南約1000kmに開設されたドームふじ基地。南極大陸の氷床に穴を開けて掘削を行い氷床コアという筒状の氷を採集し、過去の地球の気候と環境の変化を詳しく分析することで、地球規模の気候変動のメカニズムを解明する研究が進められている。1996年の初回ミッションで2503mの氷床深層コアが掘削され、奥平さんが参加した2回目では3028m、岩盤まであとわずかというところまで迫った。そして2年後、2007年に3035mの岩盤到達に成功している。
 南極の氷床には、地球の歴史を物語るロマンが眠っている。

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